祖母が遺した写真     by Tetsutaro



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 祖父は明治29年(1896年)に金沢で生れて、昭和19年(1944年)49才の時、当時の満州国の大連で亡くなった。私が生まれる10数年も前の事なので、祖父には会ったことがない。カメラの事で父に触れたが、そもそも写真が大好きだったのはこの祖父の方だったようだ。亡くなるまでの20年ほどは外地(朝鮮、満州)にいて、そこで家族と暮らしていた。祖父亡き後、祖母は満洲からの引揚げで困難な日々を過ごしたはずだが、沢山の写真を外地から持って帰ってきた。
 祖先たちは、幕末、第二次大戦と、幾世代に渡り時代に翻弄され、幾度も故郷を失いながらも懸命に生きてきた家族だったように思う。皆が元気だったうちに家系に関する話をもっと聞いておけば良かったと後悔しているが、今は残された写真からその歴史を垣間見るしかないと思っている。
 世間的にはまったく無名の人たちだが、それぞれの人生があり、今の自分たちに繋がっていると思うと写真を掲載せずにはいられなくなった。
 ほんのしばらくお付き合いください。
(画像の取込み処理の悪さは全部、哲太郎の責任です。どうかご容赦ください。)


1. 祖父の作品

 祖父は生前、よく写真の展覧会に応募していたらしい。叔母の話では、これらの写真も額装して自宅に飾られていたそうだ。


たそがれの時 日本写真会主催展覧会入選(昭和10年頃)







2. 家族の肖像


曾祖父母。  曾祖父は、安政4年5月に金沢で生まれた。加賀藩の下級藩士の嫡男で幕末の動乱期に幼少時代を過ごしたようだ。 明治26年(1893年)3月に曾祖母と結婚。三男三女を授かった。
 磯田道史の『武士の家計簿』に描かれている通り、当時の藩政は混乱の極みだったと思われる。ただ曾祖父は、上手く生き抜いていたようで、写真で見る限り、それなりに裕福な生活を送っていたようだ。
 明治40年頃、金沢から群馬県高崎に移り、その後、東京五反田へ転居した。
 曾祖母は昭和11年、曾祖父は昭和17年に五反田で他界している。


若き日の祖父。当時の技術で多重露光している処など写真好きだったことが良くわかる。 どんなカメラを使っていたのか聞いてみたい。


若き日の祖母(右)。漬物問屋の次女で、広島で生まれたのち家族で大連に渡った。元の実家は原爆の爆心地の近くだったので、外地に渡っていて良かったのかもしれない。この数年後に『ミス羅南』に選ばれたと言う。


祖父母は大正15年に結婚。東京を出て大連で働いていた祖父が、なじみの写真館で祖母を見初めたのではないかと推察している。
 軍服を着て馬にまたがった凛々しい姿の写真を見たことがある。祖父は元役人か軍人だったと思っている。後年、李香蘭(山口 淑子)で有名な満映に勤務していた。


祖母と幼い伯母。昭和初期なのに日本髪を結っているのに驚く。この頃の集合写真も残っているが、やはり日本髪は少数派だった。
 祖母は昭和58年に76歳で亡くなった。肩たたきをする度にお小遣いをくれる優しいおばあちゃんだった。


東京の五反田で祖父の姉におんぶされる父。昭和の初めに帰省した頃の写真。


大連での家族写真。父はこの頃、予科練入学を目指し、毎日グライダーに乗って飛行訓練を受けていた。
 手前は唯一存命中の親族で、祖母の姉夫婦のもとへ養女に出ていた叔母。父が周囲の人に『僕の妹』と紹介してくれた時は随分嬉しかったと言う。
 撮影しているのは恐らく祖父で、この後、病に倒れ程なく他界した。


祖母の姉夫婦と犬を抱える叔母。当時は満州内陸部の牡丹江に住んでいた。


オシャレにきめる伯母。満洲からの引揚げ後、家族と共に京都に移り、伯父と出会って結婚した。


伯父と伯母、従姉妹。


大連からの引揚げから数年後、京都で働いて生活を支えていた頃の祖母。




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